ダウン症の天使

自閉症の子供を雇う

ある日、私が経営しているコンビニエンスストに、一人の女性が子どもを連れて「この子をこの店で雇ってほしい」と訪ねてきた。

どうも様子がおかしい。母親の陰に隠れるようにして立つその子は、言葉を発しないのだ。自閉症だと母親が言う。物を言う時も、人に向かって言葉を発することができない。全て、母親の口を通さなくては、コミュニケーションが成立しないのだ。

 

無理だ。とても客商売には向いていない。そばにいた妻が目で「ダメダメ」と合図する。

やはり断ろうと思ったその時、かたわらにいた一人の店員がこう訴えた。

「社長、この人を雇って上げましょうよ。私たちが世話をしますから。社長はいつも『目先の損得にとらわれない生き方をしよう!』と、言われているじゃないですか。

日頃から福祉を専攻している店員の、その進言が私を悩まし始めた。損得勘定をすれば後ろ向きになる。しかし、社長の姿勢として「言っていることと、やっていることが一緒。」でありたい。

  


来る日も来る日も

母親に聞いた。「社会体験をしたいのですか?それとも収入を得るために働きたいのですか?」と。

普通に考えて、言葉も満足に発せられない状況で、社会のまともな仕事ができるはずもない。この母親は、社会に慣れさせるために子どもを連れてきただけで、報酬は期待していないのではないか?そんな気持ちがどこかにあっての質問だった。

 

しかし、予想に反して母親は「働いて、収入を得させたいのです」と答えた。体験なら、店の地域貢献になると言えるが、給与となると大変だ。報酬とは、正当な労働の末の対価だからである。そもそもの労働が正当でない場合、雇用者は損益を覚悟しなくてはいけない。

 

労働基準局に相談してみた。「自閉症の人を雇う場合、賃金はどうすればいいでしょうか」と。「規定通り、最低賃金は保障してあげてください」という答えがいともあっさり返ってきた。

 

悩みきった末に胆を決めて採用することにした。天は私に何を課せてきたのだろう?

 

それから日々、途方に暮れた。しかし、決めたことだ。やり切るしかない。思えば、暴走族の少年少女達には手を焼いたが、彼らはまだ言葉を発してくれた。何を考えているのか、こちらも推し量ることができた。

 

しかし、会話が成立しにくいのは大変だ。一人の店員としてお客様にあいさつできないだけではない。目が離せないのだ。それでも給与は支払い続けなければならない。大変な事になった。

 

開き始めた心。

 

相変わらず声小さく目を合わせない。「何のために?」 と、自分に問うても答えが出てくるわけではない。やりきれない。

あるときに 松下幸之助翁の言葉を思い出した。「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」 「全て受け入れよ、そして、活かしきれ。

障害者として接するのではなく一人の人間として接っしようと決めた!

 

炎天下の夏。店の前で「いらっしゃいませ」を大声で言い合う訓練をした。もちろん、その子は無言である。それでもこちらは「いらっしゃいませ」と大きな声で挨拶をし続けて1週間向き合い続けた。

すると、「いらっしゃいませ」が目を見て言えるようになってきた。

トイレ掃除を頼んだ時は驚いた。どんな小さな汚れも許さないという真剣さですみずみまできれいにしてくれた。 彼の目が輝き始めた。

みんなで心を開かせようと、ボウリングに行ったこともある。何度投げてもガーターで、溝に落ちてしまう。そこで、係員に頼んで、溝に蓋をしてもらったところ、端に当たったボールが曲がりながらも、ピンを倒した。皆で割れるような拍手をした。その子は笑顔を見せ始めた。

 

そして、1年を過ぎたころに笑顔で「いらっしゃいませ」が言えるようになり カウンターに立ち始めた。

車いすのお客様に陳列商品を買い物かごに入れてあげたりする心遣いも出来るようになっていい表情で挨拶するようになってきた。両親がその光景を観て びっくり。我が子の変化に涙したシーンを見てお金では買えない貴重な経験をさせてもらえたと いつも支援してくれている従業員と喜び合った。

 

お店にとけこんでくれるようになって2年。円満に退職した。

 

少しずつ、遅々とした歩みで、それでもやっと店の人気者になってきた彼。拍子抜けしたような、安堵したような妙な気持ちになった。

 

コーチングの仕事を始める。

自分を信頼してくれる家族やスタッフとともに、何とかお店の利益も出るようになった。そして起業後14年目、満額返済しきったのを機に、店を閉じた。

かねてより、気になっていたコーチングの仕事を始めるためだった。コンビニがセカンドステージとするなら、次なるサードステージ。自身のライフワークとしてである。


尊敬する先生に「志と恩で『しおん』と名付けてはどうか」と命名していただき、有限会社コーチしおんを設立した。1994年(平成6年)のことである。それまで、流通畑での仕事から、一転してコーチングの仕事へ。見た目は急転換に見えるが、その実一筋に貫いてきたのは「コミュニケーションの大切さ」だ。私にとって、ごくごく自然な流れだった。

 

ある時、滋賀県高島市の障害者施設の職員研修に呼ばれた。およそ30人の職員を対象に、3時間の指導を行った。

実はこの日は私に講師として継続的に指導を依頼してもらえるかどうか、それを判断する意味もあったようだ。これきりになるのか。それとも継続してもらえるか。まさに瀬戸際だった。

 

その日はいつもと様子が違った。研修が始まって、一人の女性が教室に入ってきた。年齢は40歳を超えているようだ。おかしな風采だ。男女の区別がつかないような外見で、あたりかまわず意味不明の言葉を投げつける。

その場が、シンと凍り付いたように感じられた。研修の雰囲気はかき乱されたことは言うまでもない。その女性は過去にも同じことを繰り返し、そのたびに研修の講師が手を焼いてきたようだった。

 

職員が「またか」という顔で、その人を外に出そうとする。それまでの講師が、望んできたからだった。

しかし、私はそれをしたくなかった。できなかった。どこからともなく、悲しみのようなものが押し寄せてきて、疎外してはいけないと痛烈に感じた。

「いいですよ、そのままで」と、外に連れ出そうとする職員を押しとどめた。そして、その人の肩を抱き「一緒に勉強しよう」と声をかけた。

さらに、私の横に席をつくってもらい、その人の席にした。研修をしながら、声をかけた。すると、その人は奇声を発しなくなり、3時間静かに座っていてくれたのだった。

 

「奇跡だ」と職員の方々も驚いた。

「これまでさんざん皆で手を焼いてきたのです。講師の方も当然のように、外の出してほしいという様子だったんです。色々な専門の先生が来て、立派なことや高度なお話をなさいますが、目の前の障害者一人を扱うことができなかったんです。それなのに、戸田さんは会った瞬間に、この人を落ち着かせることができました。お願いします。ぜひ、これからも私たちに指導をしてください」というお声をいただいた。

 

その話がいつしか滋賀県下で広まり、滋賀県の全福祉施設の研修指導者として認められ、あちこちでご依頼を受けるようになった。厚生労働省からも注目され、モデルケースとして紹介された。

 

妻はこう言った。「あの時の、あの自閉症のあの子よ。あの子がまた、姿を変えて、ダウン症の女性として、あなたの前に現れてくれたのよ」と。

 

ああ、そうだったか、と腑に落ちた。あの時、せっかく少しは慣れたかという頃に、自閉症の子は辞めてしまった。苦労が水の泡になったと落胆もした。何のためにがんばってきたのかと、口惜しかった。

しかし、無駄ではなかった。あの子と出会って、見えない何かと戦うかのように過ごした日々が、まさに生かされたのだと思った。

もし、あの体験がなければ「今後の仕事を決める大事な日をじゃまされたくない」と、彼女を外に追い出していたかもしれない。彼女を思いやる余裕がなかったかもしれない。


人生に無駄はない。

そう思うと、本当に人生に無駄なことはない。

全ての体験が、自分の天命を知るための手助けをしてくれる。ダウン症の彼女が、私には無垢な心を持った天使に見えた。彼女は、私に道を示しているのだ。道を開いてくれているのだ。

人は皆、いくつもの出会いを重ねながら生きてる。こんなこと何のために?という時もあるだろう。

しかし、どんな時でも誇りを持って、自らの天分を生かしきろう。

 

今、私の目の前に新しい道がある。障害者施設の研修という公的な仕事のほかに、民間の企業を経営する方々からの依頼が増えてきている。

私にはそもそも、会社員時代に部下100人をマネジメントした経験がある。独立、起業したこと。困難に立ち向かい経営を持続させてきた体験は、今の日本でがんばっている企業におそらく生かせるはずである。

公でも民でも、誇りを持って天分を生かしきるなら、そこに関わる全ての人が幸せで充実した日々を送ることができるはずだ。

 

縁尋機妙 多逢聖因。