【開眼経営コーチ 戸田紳司/プロフィール】

大学院では化学を研究した。しかし、実は人に興味があった。

京都工芸繊維大学では化学を研究していたが、就職は化学とまったく関係のない流通系大手に決めた。実は人に興味があったからだった。

 

暮らしに豊かさと笑顔をもたらす仕事。職場には毎日多くのお客さんがやってきて、会話があり、やりがいがあった。

 やがて100人の部下をまとめる立場になる。

経済学部や商学部出身でない私は「数字が読めなければ、商品の動きも人の動きも社会の動きも見えない」と、決算書の読み方を必死に独学で学んだ。

決算書を読み、現場のスタッフを観察し、対話を重ね・・・実践的なマネジメント手法を体得したのはこの頃だ。

 

脱サラしてコンビニ起業。しかし待ち受けたものは・・

次は、起業。流通大手を脱サラし、貯金と退職金と借金を合わせて6千万円を元手に、コンビニを経営。社長として、一国一城の主。いよいよ人生のセカンドステージと思いきや、2年目に試練が訪れる。

 

地元を仕切る17歳の大番長のもと、暴走族が毎日のように店に訪れ、奇声をあげ、騒ぎ、食べた物を散らかしていく。お客様が寄り付かなくなる。それでも掃除を繰り返す。しかしまた散らかる。苦しい。

 「暴走族との対話」を読む

 

悶絶の日々を送るなかでも、アルバイト店員一人一人を活かすことを心がけたり、自閉症の若者を雇ったりなどして 「ダウン症の天使」を読む、労使ともに幸せに働くことを目指す。

 

疎外された若者達と心が通じ合えた瞬間。

暴走族の問題に対しては、警察、警備会社、本部等他人依存するのではなく 自分で解決しなければどうにもならんなあと、と思うようになる。「彼らのボスと平和的解決をするしかないな」と思い始めた。自分達夫婦が丸裸になってやり始めた店。借金を返さないうちにあきらめきれるはずがない。

 

威圧的な態度をやめ、彼らと言葉を交わすようにした。彼らが何度ゴミを捨てようが、ニコニコと片付けるようにした。もちろん仕事に等ならない。

 

そのうち、少しずつ会話ができるようになる。聞けば、彼らにも彼らなりの、家庭の問題があることも分かってきた。( 「暴走族との対話」を読む


コーチングとの出会い。自分の天分に目覚める。

ある日、子供たちの少年野球を教える様子を見ながら、その監督がこれまでの監督と全く違う方法で教えていると感じた。

それがコーチングである。子供達は萎縮せず、生き生きとバットを振り、守り、自分のポジションでしっかりと野球を楽しんでいた。

 

そのとき「これだ!」と直感した。自分が生涯やりたい、やり通したいと思える仕事。後になって思えば、それがコーチングとの初めての出会いだった。

 

自閉症の子供を雇った経験が、突如生きる。

一方、コンビニの仕事では、また別の試練が降りかかっていた。

ある日一人の女性が子どもを連れて来て「この子を雇ってほしい」と言う。子どもは自閉症で、言葉もまともに発することができない。断ろうと思うが、福祉の勉強をしている店員が「社長、雇ってください。私たちが世話をしますから。社長はいつも『己の損得を超えろ』と教えておられるではないですか」と懇願した。その一言が決め手となり、雇い入れる。

苦労に苦労を重ねて2年。やっと少しは言葉が出るようになり、役に立てるようになりそうだと言う時に、その子は辞めてしまった。

 

人生に無駄な経験はない。実はこの経験が後になり、コーチングの仕事で大きく歯車を動かすことになる。

 「ダウン症の天使」を読む


 

京都にコーチングの拠点を開設。人生に無駄はない。

暴走族との根比べ、そして雪融け。自閉症の人を雇用……苦労の多いコンビニ経営だったが、大きな学びもあった。無事借金も返済し、14年間のセカンドステージを終える。

 

次は、ライフワーク。人生のサードステージが踏める幸せを噛み締めつつ、いよいよ心に秘めていたコーチングの仕事に本格的に取組む。

尊敬する人から「志と恩と書いて『しおん』」の名を授かり、1994年(平成6年)、有限会社コーチしおんを設立。

 

2009年(平成21年)、京都のコーチ高橋美佐さんとともに、日本コーチ協会 京都チャプターの発足に奔走、設立。京都チャプター代表。

近年は生涯学習開発財団認定プロフェッショナルコーチとして活動する一方、経営者のためのコーチングを行う。